寶勝寺日誌
【令和元年度 寳勝寺盂蘭盆会 住職法話より】
今年も無事、盂蘭盆会(うらぼんえ)を円成出来たことに安堵致しております。年に一度の盂蘭盆(うらぼん)施餓鬼会(せがきえ)ですから、臨済宗妙心寺派の法式(ほっしき)梵唄(ぼんばい)に則(のっと)って今後もきちんと執り行っていきたいと思っております。…人間の天寿は約120年と言われますが、我々の寿命は宇宙の存在から比べると点にも粒にも満たない短いものです。せっかくこの世に尊い命を頂いたのに、日々喜怒哀楽の感情の中に翻弄され、虚(むな)しく一生を過ごす事にならないように、どのように生きていくべきかを考えねばなりません。
…お寺での法要の意義は何かと問われれば、それは「気づくこと」「目を醒(さ)ませ!」ということだと思います。盂蘭盆会は“ウランバーナ”というサンスクリット語の音写で、それを訳すると「逆さま=倒懸(とうけん)」となります。これは本来どういう意味かと言いますと、我々はいつも“逆さま”にモノを見ていると解釈されています。誰しも、何か出来事が起きると最初は悪いほうへ悪いほうへと思いを巡らせますが、出来事が良いか悪いかではなく「今」が大切で、究極いま何を成すべきかが大切だと思います。
…我々は素晴らしい五感を有していますが、その眼・耳・口などの機能を正しく使っていくことの大切さです。例えば他人の悪い所に目が行き、嫌な話ばかりが聞こえ、他人の悪口ばかり言っているのでは、良い使い方とは言えません。その「今」の自分の心をすべて捨て切るところが、本来の真心だと思うのです。 「今という 今こそ今が大事なり 大事の今が生涯の今」という言葉が有りますように、今が大切であるからこそ、今の心をしっかり見つめていくことの大切でもあります。 …(中略)… 法要に参列する意味とは、普段の日常生活から離れ、お寺でしか聞けない佛(ほとけ)の話を聞いて頂き、自らの心に「気づく」ことの巡り合わせなのだと思います。
さてそこで我々の命(いのち)には3つの「命の縁」があると思います。それは、「宿命」「運命」そして「天命」です。宿命というのは、自分ではどうすることも出来ない、生まれながらに宿している命です。そして運命とは、宿命と共に人との巡り合わせによって進化していく命です。次に天命とは、目には見えないけれども、「天」から課せられた使命のことです。宝勝寺が皆様との仏縁によって今日復興できたことも、すべては宿命、運命そして天命のおかげなのです。何事も仏縁に委ね、「人事を尽すことで天命から得る御利益」によって今の宝勝寺の復興が有るのだと思います。
皆様お一人お一人に、天から与えられた使命が必ずあるはずですから、それを他の誰でもない自分の心の中に問いかけ、人事を尽くしていくことこそが仏心の働きだと思います。目に見える世界はもちろん、目に見えない心の世界にも思いを馳せ、ご先祖様のご供養を通し、他人の喜ぶ事また幸せを願う事こそが、自己の安心(あんじん)に繋がって行くのだと思うものです。(令和元年7月7日 盂蘭盆会住職法話より 事務局が編集しました)