寶勝寺日誌

春季彼岸会 住職法話
2017年 03月 25日

平成29年3月12日 寳勝寺春季彼岸会 住職法話より

 

 「病みてこそ道心(どうしん)の起こる候 不幸はこれ道(どう)の幸いなり」

この言葉は今から約六百年ほど前に、花園法皇が妙心寺開山・無相大師(関山慧玄)と出会った折に言われた言葉であります。花園法皇は子供の頃から体が弱く、若くして譲位されました。国の頂点に立つ運命にあって色々な悩みを持ち、体も病んでいた、そんな中で、「この運命であったからこそ、やがて生涯の師となる無相大師とめぐり合うことが出来た。心とはなんぞや、幸せとはなんぞや、あの世とはなんぞやと、自分の心に向かって問いかけることが出来た。なんとありがたいご縁を頂いたことか」と感謝する言葉です。やがて花園法皇は花園御所(離宮)を寄進され、無相大師を招いて妙心寺を開き、祖霊の供養とともに万民の平和を願ったということであります。 ・・・今日は、檀信徒皆様はじめ㈱ココ・プランニング様、関係皆様が集って無事、春季彼岸会法要を厳修することが出来ました。おそらく寳勝寺では、創建当初からこうして人々が集まって綿々と法要が行われてきたのでしょう。でも一度途切れかかった、そのぎりぎりのところで再びこの御縁を得ることが出来たことこそ、「病みてこそ道心の起こる候 不幸はこれ道の幸いなり」であろうと思います。私がここへ来たのも仏法の縁です。荒れ果てた寺だったからこそなんとかしなければと思い立ったわけです。そして今日のような彼岸晴れの佳き日に御先祖供養が出来たこと、これはすべて御先祖様との御法縁の現れであり、ここに集まっているお一人お一人の心がそうさせているということです。

・・・普段の忙しい生活の中では「仏法」に出会う機会も少ないことと思います。お寺というのは年に何度か訪ねて、御先祖供養とともに自分の心と出会う場所でもあります。人間は生まれて以降、ずっと外の世界ばかり見ています。「あの人は幸せ、自分は不幸」などと比較して、周囲の出来事に囚(とら)われてなかなか自分の心を見つめる時間が無い。我々は臨済義玄禅師を祖とする臨済宗ですが、その臨済義玄禅師が説いたのは“今ここに居る肉体の中に本物の自分が潜んでいる、自分の中にある真(まこと)を見よ”ということです。

「赤肉団上に一無位の真人あり 未だ証拠せざる者は、看よ、看よ。」

焼けば灰、埋(うず)めば土となっていくこの自分は一体なんなのか、自分に問いかけよ。と、臨済義玄禅師は叱咤激励しているわけです。われわれの肉体はずっと自分の物ではありません。いずれ返さねばならない、そうであるのに、「あれもほしい、これもほしい。」と体いっぱいに引っ付けようする。なにも欲しいものは無い、今、ここに居れば充分だという心。「本来無一物」「無心」だと悟ること。「無一物中無尽蔵 花有り月有り楼台有り」 そういう安心(あんじん)の心を忘れずにお過ごし頂きたいと思います。 (事務局編集)

Copyright© 2014 臨済宗妙心寺派 太白山 寶勝寺 All Rights Reserved.

〒921-8033 石川県金沢市寺町5丁目5番地76号
電話:076-287-3870